会員の声
◇会員の声
仕事に、歌に、ステージに 人生おもしろい! 【石井 敏雄 会員】
私はシルバー人材センターに平成24年5月に入会して、6月に学校の受付管理業務の仕事を紹介され現在小学校で就業しております。
若い頃、高等学校に従事しており、大凡の所は把握していたつもりでしたが、実際働いてみると諸先輩の苦労が手に取る様にわかりました。
校内の巡回は教室等が入り組んでおり時間がかかり、教室の点検確認は不審や異常がないか神経を使い、学校施設利用者、校庭開放時の父兄への対応は親切・丁寧なことに気を配り、なんとか仲間同士協力しあい一生懸命就業し3年が立ちました。2年目にはチーフ役を仰せつかり現在に至っております。
さて、現役の頃は営業関係に従事し、夜な夜なスナックでへたの横好きで歌を唄っており、おだてに乗り小天狗になっておりました。
リタイヤした現在、文高連(文京区高齢者クラブ連合会)の紹介で白山親老会という会に入会しました。
ここでビクターの認定講師五十嵐先生と出会い、カラオケの基本のボイストレーニングから始めて3年、やっと声が出る様になるまで約2年かかりました。今年は1年間で4回ステージを踏む予定です。
この様な経緯で会員の皆様の親睦と交流を図るため、新しいカラオケサークル「希望」を今年4月に立ち上げ活動を始めました。
会員の皆様奮ってのご参加をお待ちしております。
若い頃、高等学校に従事しており、大凡の所は把握していたつもりでしたが、実際働いてみると諸先輩の苦労が手に取る様にわかりました。
校内の巡回は教室等が入り組んでおり時間がかかり、教室の点検確認は不審や異常がないか神経を使い、学校施設利用者、校庭開放時の父兄への対応は親切・丁寧なことに気を配り、なんとか仲間同士協力しあい一生懸命就業し3年が立ちました。2年目にはチーフ役を仰せつかり現在に至っております。
さて、現役の頃は営業関係に従事し、夜な夜なスナックでへたの横好きで歌を唄っており、おだてに乗り小天狗になっておりました。
リタイヤした現在、文高連(文京区高齢者クラブ連合会)の紹介で白山親老会という会に入会しました。
ここでビクターの認定講師五十嵐先生と出会い、カラオケの基本のボイストレーニングから始めて3年、やっと声が出る様になるまで約2年かかりました。今年は1年間で4回ステージを踏む予定です。
この様な経緯で会員の皆様の親睦と交流を図るため、新しいカラオケサークル「希望」を今年4月に立ち上げ活動を始めました。
会員の皆様奮ってのご参加をお待ちしております。
我が青春のフォークソング 【佐藤 重行 会員】
昭和39年に初来日したピーター・ポール&マリー(PP&M)が歌った「♫花はどこへいった」、「♫500マイル」等の曲は、当時中学2年だった私の人生を大きく変えました。
何と素晴らしいメロディ、そして美しいハーモニーなんだろうか…。日本に「フォークソング」を芽生えさせる一大事だったのです。
高校に進むなり早速フォークギターを買い、親友とバンドを結成。PP&Mのコピーに明け暮れる毎日でした。
そんな中、当時の渋谷公会堂でマイク真木・高石友也・岡林信康・五つの赤い風船・森山良子など、日本のフォークソングの幕開けとなるコンサートがあり、出演していたザ・リガニーズの「♫海は恋してる」の美しいハーモニーにショック…。PP&Mのコピーや真似でなく、オリジナルでメッセージソングを歌えれば…、と憧れていました。
大学に進学するなり、フォークソングクラブの門を叩くと、な、な、何と憧れの「ザ・リガニーズ」がいたのです。4年先輩でした。当時はグループサウンズも全盛期でザ・タイガース、ザ・スパイダースなどバンド名に「ザ、…」が付いていて、「ザ・リガニーズ」も「ザリガニ」を複数にしたものでした。私も組んだバンドに当時流行っていた映画「座頭市」をもじり「ザ・トーイチーズ」と名付け活動をしました。
初舞台では憧れのリガニーズのベーシスト内山 修氏がバックでウッドベースで参加してくれたことは忘れません。また、この舞台には同期で、後に映画「遠雷」の監督をしブルーリボン賞を受賞した根岸 吉太郎氏も一緒でした。内山先輩は卒業後、吉田拓郎が「♫結婚しようよ」のヒットを出した時のバックバンドをやり、その後、「猫」というバンドで「♫雪」や「♫地下鉄に乗って」などのヒットを出しました。
各大学のクラブとも交流が盛んで、昭和47年に12大学のフォークソングクラブが日比谷野外音楽堂に結集したフーテナニーでは総合司会をしたり、「♫なごり雪」がヒットになったイルカさんが杉並の女子美大のフォークソングクラブで代表をしていた時に親交があったり…、などなど青春の真っ只中で謳歌したものでした。
同期もレコード会社のユニバーサル・ミュージック・ジャパンの社長になった北村氏やイベント会社に進んだ者もいましたが、ほとんどは一般の会社に進み、いま現役引退時期になっています。
私は亡き実母の介護のため、少し早めに退職しましたが、一般の会社を30数年勤め上げ、現在はシルバー人材センターにお世話になり楽しく就業しております。
今は毎年20~30人集まるOB会でギター片手に「♫海は恋してる」の大合唱。そしてオヤジバンドで懐かしのPP&Mを歌い若返っています。
何と素晴らしいメロディ、そして美しいハーモニーなんだろうか…。日本に「フォークソング」を芽生えさせる一大事だったのです。
高校に進むなり早速フォークギターを買い、親友とバンドを結成。PP&Mのコピーに明け暮れる毎日でした。
そんな中、当時の渋谷公会堂でマイク真木・高石友也・岡林信康・五つの赤い風船・森山良子など、日本のフォークソングの幕開けとなるコンサートがあり、出演していたザ・リガニーズの「♫海は恋してる」の美しいハーモニーにショック…。PP&Mのコピーや真似でなく、オリジナルでメッセージソングを歌えれば…、と憧れていました。
大学に進学するなり、フォークソングクラブの門を叩くと、な、な、何と憧れの「ザ・リガニーズ」がいたのです。4年先輩でした。当時はグループサウンズも全盛期でザ・タイガース、ザ・スパイダースなどバンド名に「ザ、…」が付いていて、「ザ・リガニーズ」も「ザリガニ」を複数にしたものでした。私も組んだバンドに当時流行っていた映画「座頭市」をもじり「ザ・トーイチーズ」と名付け活動をしました。
初舞台では憧れのリガニーズのベーシスト内山 修氏がバックでウッドベースで参加してくれたことは忘れません。また、この舞台には同期で、後に映画「遠雷」の監督をしブルーリボン賞を受賞した根岸 吉太郎氏も一緒でした。内山先輩は卒業後、吉田拓郎が「♫結婚しようよ」のヒットを出した時のバックバンドをやり、その後、「猫」というバンドで「♫雪」や「♫地下鉄に乗って」などのヒットを出しました。
各大学のクラブとも交流が盛んで、昭和47年に12大学のフォークソングクラブが日比谷野外音楽堂に結集したフーテナニーでは総合司会をしたり、「♫なごり雪」がヒットになったイルカさんが杉並の女子美大のフォークソングクラブで代表をしていた時に親交があったり…、などなど青春の真っ只中で謳歌したものでした。
同期もレコード会社のユニバーサル・ミュージック・ジャパンの社長になった北村氏やイベント会社に進んだ者もいましたが、ほとんどは一般の会社に進み、いま現役引退時期になっています。
私は亡き実母の介護のため、少し早めに退職しましたが、一般の会社を30数年勤め上げ、現在はシルバー人材センターにお世話になり楽しく就業しております。
今は毎年20~30人集まるOB会でギター片手に「♫海は恋してる」の大合唱。そしてオヤジバンドで懐かしのPP&Mを歌い若返っています。