基本情報・沿革
基本情報
【法人名称】
公益社団法人和泊町シルバー人材センター
【設立年月日】
平成 4年 4月 1日
【公益法人移行】
平成 24年 4月 1日
【住 所】
〒891-9111 鹿児島県大島郡和泊町手々知名155番地
【代表電話番号】
TEL 0997−92−0309
FAX 0997−92−3739
【代表理事の氏名】
平山 和仁
【役員構成】
理事 10名 ・ 監事2名 ・ 事務局職員8名
【事業概要】
健康で働く意欲のある高齢者のために、希望、知識及び経験に応じた就業等の活動機会を確保し提供することで、高齢者の社会参加を促進し生活感の充実及び福祉の増進を図り、活力ある社会づくりに寄与します。
【人口等の概要】
1 町人口 6,004人
2 60歳以上人口 2,696人 ( 構成比 44,9% )
令和6年3月31日現在
【会員構成】
1 会員数 308名 ( 男性 143名 女性 165名)
2 入会率 11,4%
3 職群班 9班
令和6年3月末現在
沿革
和泊町の概要
和泊町は鹿児島市の南南西536kmの洋上に浮かぶ沖永良部島(周囲50.3km、面積96.3平方キロ)の東北部に位置し、年平均気温は22度である。隆起サンゴ礁で覆われた平坦な地形で、中央に古成層からなる(188.6m)があるのみで、耕地に恵まれている。
海岸線は変化に乏しく、港湾条件が悪い。道路は、循環道路、町道、農道が整備されている。
本町は農業が基幹産業で、かつてはサトウキビとユリ球根が主体でありましたが、若い農業後継者の増加に伴い施設園芸や花卉栽培も盛んになっています。
特に、バレイショは「春のささやき」として鹿児島県ブランドの指定を受け、安定した生産に取り組んでいます。
海岸線は変化に乏しく、港湾条件が悪い。道路は、循環道路、町道、農道が整備されている。
本町は農業が基幹産業で、かつてはサトウキビとユリ球根が主体でありましたが、若い農業後継者の増加に伴い施設園芸や花卉栽培も盛んになっています。
特に、バレイショは「春のささやき」として鹿児島県ブランドの指定を受け、安定した生産に取り組んでいます。
和泊町の歴史
沖永良部島は、文永3年(1266年)から約340年間、琉球王の支配下にあったが
慶長14年(1609年)に薩摩藩主島津家久の琉球支配により、薩摩藩の統治下に置かれた。
文久2年(1862年)島津久光の怒りにふれ流謫された西郷隆盛は召還される元治元年(1864年)まで島民に学問を教えるなどして町民性の基盤を培った。
また、社倉法を教え共済機関として島利民福を図った。明治41年(1908年)島しょ町村制が実施され、沖永良部島の行政区間は和泊村と知名村に区分された。昭和21年3月から昭和28年12月までの8年間祖国日本から分離されアメリカ軍配下におかれた。昭和28年12月、祖国日本に復帰、翌年から奄美群島復興特別措置法が公布され、公共施設、道路、港湾等整備が進められきましたが、本土との格差は大きく、引き続き振興事業、振興開発事業と振興策が講じられてきました。交通、産業、教育、文化、福祉等の諸基盤の整備が進まれてきた、「豊かで活力に満ちた心やすらぐ花のまち」づくりに取り組んでいます。
慶長14年(1609年)に薩摩藩主島津家久の琉球支配により、薩摩藩の統治下に置かれた。
文久2年(1862年)島津久光の怒りにふれ流謫された西郷隆盛は召還される元治元年(1864年)まで島民に学問を教えるなどして町民性の基盤を培った。
また、社倉法を教え共済機関として島利民福を図った。明治41年(1908年)島しょ町村制が実施され、沖永良部島の行政区間は和泊村と知名村に区分された。昭和21年3月から昭和28年12月までの8年間祖国日本から分離されアメリカ軍配下におかれた。昭和28年12月、祖国日本に復帰、翌年から奄美群島復興特別措置法が公布され、公共施設、道路、港湾等整備が進められきましたが、本土との格差は大きく、引き続き振興事業、振興開発事業と振興策が講じられてきました。交通、産業、教育、文化、福祉等の諸基盤の整備が進まれてきた、「豊かで活力に満ちた心やすらぐ花のまち」づくりに取り組んでいます。